創作物

小説

トムライシキ

 手紙を、ましてや恋文を書くのは初めてで、もう何枚も紙を無駄にしてしまった。長く書けたとしても数行で、それも意味のない挨拶だけ。何を書くべきなのか、それをどのように書くべきなのかが分からずに、ずっと彷徨い続けている。

 初恋の人に手紙を書こうと思い至ったのは、冬が来たせいだった。息が白めく季節になると、僕は決まって彼女のことを思い出す。忘れようとしても呪いのように、あの横顔を忘れることは出来ないままで。

 別れてから、もう数年が経っている。中学生だった僕は高校生になり、もう彼女は僕のことを忘れているのかもしれない。だから、この手紙はエゴなのだ。彼女に何かをしてもらいたいわけではなくて、僕が僕自身のために書く、身勝手な感情の押し付けに過ぎない。

 けれど、それくらいは赦してくれるだろう。僕も彼女のエゴを手伝ったのだから。読まれずとも、捨てられてもいいから、せめて送ることだけでも赦して欲しいと思う。

 結局、気取り、飾った言葉を書こうとすることを辞めると手紙はすらすらと書き上がる。手
は独立した動物であるように、気味が悪いほど鮮やかに動き、気が付けば文章は終わっていた。

 好きや愛しているなんていう言葉はない。それでも、文章の端々にはいやになるほど生々しい感情の痕跡が残されていて、完璧なまでに恋文なのだと実感する。

 丁寧に手紙を折りたたみ、封筒に入れ、封をする。住所を書き、ポストを探すために外に出ると街は既に冬に染まっている。

 落とさないように、しかし握り潰さないように、強く、しかし優しく封筒を握りながら歩いて行く。あの夜のことを思い出しながら。

      *

 月が空に美しく見える日は、無性に外に飛び出したくなる。

 死んだように世界が静まった夜半の空気はコートを羽織っても身体に染みる寒さを孕んでいた。吐いた息が白く染まる。呼吸をしていることが分かる。生きていることを、自覚する。 歩き始めると、閑散としていた街の中に僕の足音だけが響く。真っ新な雪原を踏みしめるのは、このような感覚なのだろうか。完全な静謐を打ち壊すのは禁忌を犯しているような錯覚がして、いつも好きになれない。ここに居てはならないのではないかという考えを抱きながら、進んで行く。

 向かう場所は決まっていた。舗装すらされていない山の頂上。ぽっかりと空いたそこは月を見るには絶好の場所で、土の上に腰を下ろしながら思考を暗闇の中へと投棄し、空を見上げるのが僕の習慣だった。

 点滅をしている死にかけの街灯と見慣れない飲み物ばかりが並んでいる格安の自動販売機を追い越して、ひと気のない場所を求めるように進んで行く。徐々に明かりは減っていき、周囲は真っ新な夜で満たされていく。

 山の中に這入る時は、決まって妙な感覚がする。たった一歩踏み出すだけなのに、そこは人間の世界ではない。闇だけが支配をし、木々の擦れ合う音だけがする異質な空間。空想の化け物を描くには、とっておきのカンバスだ。何度訪れても、じっとりと肌に貼り付くような恐れが拭われることはない。

 掌を握って、歩き始める。闇の中へと身体を委ねる。

 舗装をされていない、ありのままの道は当たり前だけれどもひどい凹凸ばかりで暗闇の中であれば尚更に真っすぐ歩くことが出来ない。けれど、それももう慣れた。全く躓かないということは不可能だけれども、転ぶようなことはもうない。コートに擦れる葉の音を聞きながら、僕は一心に山の頂上へと向かって行く。

 違和感を覚えたのはもうすぐ頂上に辿り着くというタイミングだった。真夜中の世界は、もっと言うならば真夜中の山は、いつだって気味が悪いほどの静寂で包まれている。微かに響く風の音と自分自身の足音以外には何も音がしない。そのはずなのだ。

 しかし、今日は真夜中を引き裂くような音が響いていた。ざっ、ざっ、という土を掘るような音。時折乱れるけれど周期的なその音は自然的というよりも人間的な響きを持っていた。

 ゾッとする冷たさが身体の内側を走る。僕以外の誰かが、この山に居るのだ。暗闇が有していた恐怖や不安感が一気に増幅し、頭の中をがんがんと揺らす。

 誰が、どうしてこんな時間に山に居るのだろうか。それも、どうして土を掘っているのか。理解をすることが出来ず、想像すらも打ち止められる。足が竦んで、近くにあった木に凭れかかるようにして手をかけるとひんやりとした温度が掌に伝わった。

 引き返すべきだろうか。頂上に居るのがどのような人物であれ、何をしているのであれ、これ以上進むべきではないと何かが力強く訴えている。踏み込めば、知ってしまえば、戻ることは出来ない。今が、引き返す最後のタイミングなのだ。

 それでも、闇の先にあるその音には惹き込まれるような魔的な引力があった。知ることは、恐ろしいことだ。けれど、知らずにいれば不安は想像力によって際限なく肥大化し、呪いのように心の中にこびりつく。耳を塞ぎ、目を逸らすこともまた逃げでしかないのだ。

 考えている間にも、音は鳴り響き続ける。逡巡の果てに、僕はゆっくりと前へ向かって動き始めた。葉を揺らさぬよう静かに、暗闇に溶け込むように息を潜めながら。

 その人物は山の頂上に居た。月光に照らされたシルエットはスコップを用い掘削を続けているけれど案外山を掘るという行為は難しいものなのかペースは遅々としたものに見える。

 こんな場所に穴なんて掘って、何をするつもりなのだろうか。そうして身を乗り出そうとしたことが始まりだったのだ。

 コートに枝が引っかかり、がさりという音が立つ。息を殺した時には既に遅く、影は動きを止めてゆっくりとこちらの方を見た。

 気がおかしくなりそうなほど緊張をした。恐怖が身体を支配した。しかし、それと同時に僕は見惚れてしまった。月光を背景に僕のことを見たその女性に。

「誰か居る?」

 女性の声は真夜中の山頂という空間に似つかわしくない、自然なものだった。剥き出しの悪意も、貼り付けたような優しさも見えず、だからこそ不自然にすら感じてしまう。異常の中では、正常こそが異常なのだから。

 じっと、何もしないまま固まる。気のせいだと見過ごしてくれと願いながら、顔を動かすことすら出来ずに女性の方を見る。目が合っているような気がして、指先が痺れる。

「んー?」と間の抜けたような声を上げながら女性はスコップを地面に放り投げ、こちらに二、三歩と近付いてくる。闇を覗き込んできた目がこちらを見据えた。パラノイアではなく、現実的な確信を持って、そう思う。

「君、こんな時間に何してるの?」

 言葉が、上手く出ない。いや、仮に上手く喉が機能をしたとしても、僕は何も言えなかっただろう。月を見に来た、なんて理由はなんだか間抜けな気がして。

 女性は暫く僕の方をじっと見た後で「まあいいいや」と呟いた。

「ちょっとさ、穴掘るの手伝ってくれない? 掘ってみると結構疲れるもんでさ、もうくたくたなんだ」

 道化のような所作で女性は両の手をふらふらと振り疲労をアピールする。これが昼間であれば、恐ろしくはないのかもしれないけれど一挙手一投足に不気味な色が宿って見えて、気を抜くことが出来なかった。

 女性は動かずに居るままで居る僕の方を見つめた後でにっと笑い落ちていたスコップを拾う

「まあ、わざわざ穴なんて掘りたくないよね」

 そう言って彼女は身を翻し、再び穴の方に向き直り掘り始める。ざっ、ざっ、という音が目の前で作り出されていく。

 彼女は真夜中に突然現れた部外者に、一切の興味を示さない。ただ、掘ることだけに集中を続けている。それが何故だか見放されたように感じて、僕は無意識のうちに足を女性の方へと向けていた。真夜中に独りで居ることの不安に今更気が付いたように。

「ん?」と女性は振り返って僕の方を見る。

「どうしたの? やる気になった?」

「どうして穴を掘ってるんですか?」

「そりゃ、埋めるためだよ」

 何を、という言葉は女性が指さした先にあるものを認識することではたと途絶える。 そこには死体があった。

 体格から見るに、男性だろうか。うつ伏せになっているせいで顔は見えない。けれど、後頭部はぱっくりと割れていて赤い生命が流れ出していたことが分かる。既にそれは固まっていて、黒々としたグロテスクな色味がてらてらと月光に照らされているだけだったけれど。

 死の匂いがすると思ったのは、単なる錯覚なのかそれとも実際に近付いたことでようやく知覚をすることが出来たのか。腹の底から数時間前に食べたものがむせびあがってくるのが分かる。喉を胃酸がちりちりと焦がす。

 吐かずに済んだのは、死体を目の前にしてもこの女性の前でみっともない姿を晒したくないと思ったからだった。食道を上って来たそれを無理やり飲み込んで、冬の外気で気分を紛らわせる。

「何ですか、これ」

「人間だったもの」

 女性はそう言ってから再び土を掘る。よく見ると、掘られた穴は棺桶のように人のかたちに象られていた。

「痴話喧嘩の成れの果てってヤツかな。殺すつもりは勿論なかったんだけど、当たり所が悪かったみたいでね」

 当たり所、というけれど死体に残った傷痕は明確な殺意が見えた。今更僕に対して誤魔化しても意味はないというのに、口にされた韜晦は空虚に冬の夜を揺らす。

「君も掘る? 死体遺棄なんてなかなか出来ない経験だよ」

 そう言って、彼女は笑ってスコップを差し出した。その表情は死体を遺棄しようとしているとは思えないほどに無邪気なもので、僕はいつの間にかスコップを手に取っていた。べったりと、持ち手に指紋がつく。これで僕も共犯者になった。

 女性によって掘られた虚ろを覗いた。深さは数センチ。人を埋めるにはまだまだ足りない、浅い穴だけれども底がないように深く、黒く見える。

 死体を視界に入れないようにして、僕はスコップを土に突き刺した。思い切りやったつもりだったけれど予想していたよりも深くは刺さらずに止まる。足を使っててこの原理で土を掘り返し、横に退けるとそれだけでも穴を掘るという行為の重たさが身に染みて分かった。

 僅か数センチだと思っていたけれど、どれほどの時間をかけて彼女はこの穴を掘ったのだろうか。この闇と寒さの中、死体を傍らに置いてこんな作業を続けることが出来るなんて、正気ではない。

 再び、地面にスコップを突き刺し、土を掘る。あれほどまでに周期的なリズムで掘ることが出来ていたのは、これだけの穴を掘るうちに慣れたからなのだろう。とてもじゃないけれど、僕にはあの音と同じ頻度で穴を掘ることは出来ない。

「うん、いいね。良い調子だよ」 女性は死体から距離を取るようにして僕の後ろに座った。殺したんだから、責任を持って隣に座ればいいのに、どうして関係のない僕を壁にするように座るんだろうと不満が心の中に生まれる。

「あのさ、どうしてこんな時間にこんな場所に来てたの? 君くらいの歳だと条例にも引っかかるでしょ」

 法律を犯した人間に条例違反程度のことで口を出されたくないとは思ったけれど、そうした感情を抜きにして確かに今の僕は条例を犯していた。十四歳は真夜中、外に出るべきではないし、必要もない。

「……月を見に来たんですよ」

 結局口にしたその理由はやはり声に出すと滑稽な響きがした。女性はからからと鈴のように、心底愉し気に笑う。

「いいね、詩人みたいだ。こんな良い月を一人で見て寝る、だっけ」

 小馬鹿にされているように思えて、神経をスコップに集中させる。穴は少しずつだけれども確かに深くなり、死体を埋めるための空間になっていく。

「馬鹿にしてるわけじゃないよ?」と、彼女は見透かしたように付け加えた。

「本当に素敵だと思うんだ、その感性は。夜空を見上げる習慣なんて、私にはなかったからさ。
突然星も月も取っ払われたって気付かなかったと思う」

「そんなことはないでしょう」

「いやいや、本当に。知ってる? UFOの発見件数が減ったのってさ、誰も空を見上げなくなったからなんだって。ほら、今時みんなスマホばかり見てるでしょう?」

 なるほど、と一瞬納得しかけたけれど、近年の発見件数が減っているのは単に世間のオカルトへの関心が薄まりつつあることや、チープな画像加工が容易く見破られるようになったからだろう。仮に誰しもが詩人的感性を持っていたとしても、今時UFOは見つからない。流行らない、と言った方が現実的だろうか。

「あー、確かにこの場所から見上げると月が綺麗に見えるね。この街の特等席だ」

 顔を真上に向けたせいで若干くぐもったような声で彼女は言う。そうだ、彼女の言った通り、この場所は特等席だったのだ。死体と、それを遺棄する人間が居たせいで曰く付きの、近寄りたくもない場所に変わってしまったけれど。

「あの、ひとつ聞いてもいいですか」

「手伝って貰ってるし、私に答えられる質問であればひとつじゃなくても」

「人を殺すって、どういう感じだったんですか」

 その僕の質問を聞いて彼女は笑ったけれど、僕にとっては、至極真剣な質問だった。生きることは、そして死ぬことは、中途半端に現実が見えるようになってきた十四歳からするとあまりにも大きく、悲観することしか出来ないような命題だったから。人を殺した人間が何を思うのかが知りたかった。

「そうだね。どういう感じだったか、か。難しい質問だ」

「思い出すことが、難しいことなんですか」

「他の殺人がどうかは分からないけどね、私の場合は気が付いた時には終わっていたんだ。冗談みたいんだけど、本当に」

「記憶がないってことですか」

「記憶はある。何で殴りつけたのかも、肉を打ち付ける感触も、床に広がっていった赤い染みも、全部鮮明に覚えてる。でも、ああ、そんなことがあったな、とは思うんだけど、実感が何も湧かないんだ。映画を観たような感触だけがして、どんな感じだったのかなんて覚えてないよ」

 あっけらかんとした、韜晦のようにも思える言葉は、逆に生々しい体験として聞こえた。人を殺す感触をだらだらと描くのはフィクションのするべきことで、本当の体験とはむしろ彼女が語るように茫洋としたものなのかもしれない。

「記憶と私自身の感覚が繋がったのは、床を拭いてた時。ああ、やっちゃったなって思って、でもそれを誤魔化すために強く、強く、タオルで床を擦ったことを覚えてる。そんなことをしても、血がフローリングから完全に取れるわけなんてないのにさ」

 彼女は人を殺したという行為が法律を犯す、非倫理的な行為だったということを認識している。けれど、後悔は見えない。彼女の独白は懺悔ではなく、本当に、ただの独白なのだ。自分自身でも整理することが出来ていない今までを現実として処理するための、独りきりの告白。

 僕は土を掘りながら静かに彼女の話に耳を傾け続ける。寒さも相まって、スコップを握る手が痛み始めた。

「不思議だよね。数時間前のこいつと、今のこいつ、質量的な違いは血液が減っただけだっていうのに動かなくなった今となってはもう誰も人間だと思ってはくれない。もう死体であり、物質であり、人間じゃないんだ。私のせいなんだけどさ、残酷な現実だよ」

 女性はそう言って立ち上がり、軽く座った際についた土を手で払った。

「そろそろ変わろっか。君にばっかやらせるものでもないと思うしさ」

 全く疲労がないかと問われれば嘘になるけれど、まだ掘ることは出来る体力はあった。それでも断る理由は見つからなくて、僕は女性にスコップを渡し、彼女が座っていた場所に腰を下ろす。そこには仄かに、彼女の体温の跡があった。

 よっ、と声を上げながら彼女は掘削を再開する。やはり、彼女の手つきは慣れたようなもので、僕がしていた時とは比べ物にならないほど早いペースで土が掘られていく。

 暫くの間、誰も、何も喋らないままで土が掘られていく。月光に照らされながら彼女が土を掘り進める姿は、ある種の絵画のように完成されているもので、飽きることなく僕はその姿を眺めていた。 もしも、と思う。傍らに死体がなければ、二人で月を見上げることが出来ていればどれほど良かったのかと思う。僕たちに話し合えるような共通項があったかは分からないけれど、それでも、ただ静かに並んでいるだけで良かった。僕は、それで満たされたのだ。

 けれど、そんなことは有り得ない。彼女は死体がなければこの山には訪れなかっただろうし、そうすれば僕は彼女に会うことすら叶わなかっただろう。こうして会うほかに、どうしようもなかったのだ。

 運命という言葉で片付けられてしまいそうな揺るがすことの出来ない事実は、十四歳の心には重くのしかかった。どうすることも出来ないことがあることは分かっていて、しかしそれを仕方ないと受け入れることが出来るほど達観することは出来ていない。

 そもそも、彼女は僕に対して何も思っていないのだろう。訪れたのがたまたま僕だったからこそ僕に頼んだだけであって、死体を遺棄する共犯者は誰だって構わなかったのだ。

 そう考えると胸に疼痛を覚えた。僕にとっては代替の利かない、誰でもない誰かに、誰でも良いと思われるのは痛いし辛いことだ。

「どうして、死体を埋めようと思ったんですか?」

 痛みを誤魔化すように尋ねると女性は土を掘る手を止めて、僕の方をじっと見た。月明かりに照らされた彼女の顔は、硝子細工のような、脆く危うい美しさを孕んでいる。

「交代してくれたら答えてあげるよ」

 僕は立ち上がり、彼女が差し出したスコップを受け取る。持ち手の部分には仄かに彼女の体温の残骸があり、それを離さないように強く握って、土を掘り進める。

「例えば、死体を焼くとしてみよう。そもそも、人ひとりを完全に燃焼させることは難しいし、何よりどれだけ強く焼いたとしても必ず何かしらの痕跡は残ることになる。手間の割には露見しやすいので、却下」

 女性は淡々と通常であれば考えることのない「もしも」を語る。人を焼いた時のことなんて、想像したこともなかったしするつもりもなかった。

「次は、そうだね。海に投げ捨ててみよっか。あまりにも広いし、捜索をしようにも出来ない。魚なんかが自然に分解をしてくれるから一見優れた場所にも思えるけど、意外にもそうじゃない。バレないように沖から離れるためには船でそこまで行かないといけないし、人間の死体には時間が経つとガスが溜まって浮き始めるんだ。勿論、徹底して浮いてこないように重石でもつければ大丈夫だろうけど、それはやっぱり手間がかかり過ぎる。却下」

「……つまり、山に埋めることこそが、死体を遺棄するのにこれ以上なく適していたからだと
?」

「うん、そうだね」

「本当に、これで捕まらないと思ってるんですか」

 彼女の計画は、素人目に見てもあまりにも杜撰なように思えた。隠蔽をするための何かをしているわけでもなさそうで、これなら警察が証拠を見つけるのも時間の問題のように思える。

 無論、素人に出来る隠蔽工作など限界がある。完全に隠すことは、出来るはずもない。しかし、それでも、隠そうと足掻くことは出来る。少しでも、見つかる時間を遅らせるために虚しく抵抗をすることは、出来るはずなのだ。

 それなのに、山の中に埋めるだけという杜撰な計画の中にはその意志を見ることが出来ず、むしろ彼女の表情にはどこか諦観のような色が含まれていた。

「嫌なところに気が付くなあ」と彼女は疲れたように笑った。その顔には悲劇的な美しさが、確かにあった。

「捕まるとか捕まらないとか、そういうことは正直に言うとどうでもいいの。私にとっては、埋めることに意味があったから」

「死体を埋めて、何になるんですか」

「私の手で終わらせたかったの。弔うことの出来なかった、形骸化した想いは呪いでしょ。私が、私のために終わらせたかったんだ、何もかも全部」

 全部、という言葉が何を指しているのかを僕は知らないし、知るつもりもなかった。それはきっと、彼女の中にだけ存在している個人的な領域の話だろうから、僕には知る権利などないのだ。

 骸となり、横たわった男には、その権利があったのだろうか、と思う。誰でもない誰かとしてではなく、他でもないその人として求められ、殺されたこの男は少なくとも僕よりも彼女のことを知っていたのだろう。

 例え結末が死だったとしても、彼女と通い合った関係になることを羨ましいと思ってしまうのは、僕が全てを終えた後に俯瞰しているだけの立場の人間だからなのだろうか。それでも、死んでしまってもいいと、今思っている気持ちは紛れもないものだった。

 それから、僕たちの間に会話はなかった。僕が掘り、暫く進めたところで彼女にスコップを手渡す。そうした作業が何度か繰り返されたところで、成人男性を埋めるのに十分な虚が月の特等席の下に作られた。

「これは、私がやるから」

 そう言って、彼女は死体に手をかける。初めは抱きかかえるようにして持ち上げるつもりだったようだけれども、死体となった男は予想以上に重たかったようで結局引き摺るようなかたちで男を穴の中へと投棄する。棺桶のような穴だけれども、ようやくといったかたちで放り出された男の姿勢は乱雑に丸められた紙のようにくしゃくしゃで、情けないものだった。

 彼女は何も言わないままで、穴を埋めていく。あれほどの時間と労力をかけて出来上がった穴も、埋めるのに時間はかからない。祈るように土を掬い続ける姿に見惚れているうちに、作業はいつ間にか終わっていた。

「ありがとうね」と彼女は笑った。その表情には確かな倦怠があったけれど、それとともに晴れ晴れとしたものもあり、手伝って良かったのだと心の底から思う。

「手伝わせておいて言うのもなんだけどさ、君くらいの歳の子が出歩く時間でもないだろうし、早く帰りな」

「貴女は、これからどうするんですか」

「そうだなあ」

 間延びをしたような言葉を吐いてから、彼女は静かに視線を空へと向ける。

「少しだけ、月を見てから帰るよ。それからのことは、分からないや」

「僕も、一緒に見てもいいですか」

 縋るように尋ねると、薄く笑われる。

「君は元から、そのために来たんだったか。うん、私には断れる理由がないけど、あまり長くは居ないようにね」

 僕は面を上げて、空を眺める。月は暗闇の中で輝いて、僕たちを見下ろしている。もしも、それに意志があるのだとすれば、僕たちのことをどのように思って見ているのだろう。侮蔑か、憐れみか。手を伸ばしても届くはずのない月のことは、どれだけ考えても分からない。

「君よりも、少しだけ長く生きている人からひとつだけ、教えてあげる」

 ふっと、思い出したように、彼女は月から目を離さないままで呟いた。

「恋なんて、しない方がいいよ」

      *

 高校から帰途に就き、既に夜の気配がするようになった時間。帰宅をし、郵便受けを覗くと見慣れない封筒が入っていた。差し出された住所は刑務所で、彼女からの返信なのだとすぐに気が付く。どうやら、刑務所の中からでも手紙は出せるらしい。

 僕が手紙を出してから、もう一年は経とうとしていた。まさか、返信があるとは思ってもいなくて、心臓がばくばくとぶっ壊れてしまいそうなほど鳴る。

 爆弾を抱えるように手紙を学生服の下に隠し、階段を上がって自室に入り込むと急いで、しかし封筒を破らないよう慎重に封を開けた。

 彼女の文字は、思っていたよりも粗雑なものだった。時間がなかったのか、元からこのような字を書くのか、僕だから雑にしても良いと思ったのかは、分からない。

 手紙の内容は、服役をしている人間から届いたものとは思えないような、素朴なものだった。
あの夜のことと、最近の悩みについて書かれているだけで、文面だけを見れば彼女が刑務所の中に居るとは思えないかもしれない。

 異質ではあるけれど、あの日、死体を埋めながら飄々と僕を迎え入れた彼女なのだ。何も、おかしなことではないのだろう。 何度も読み返し、手紙を抽斗の中に仕舞う。丁度、食事が出来たという母の声が階下から聞こえ、大きな声で返事をした。

 食事を終え、日常的生活をいつものように熟す。零時を周り、家の中が何もかも眠りについた後で僕は身体を起こし、抽斗の中に仕舞ってあった手紙を取り出した。

 父の煙草用のライターを手にし、外に出る。彼女と出会ってから月を見ることを辞めたせいで夜半の空気は数年振りのものだった。記憶の中にあるよりもずっと冷たいそれは、容赦なく肌を刺す。

 死体が遺棄されてから、あの山へ入ることは出来なくなった。元々、誰かの私有地だったということもあり、同じような事件が繰り返されないよう柵が作られ、カメラが置かれるようになったのだ。

 だから仕方なく、僕は家の庭に立ち、そして手紙にライターをかざし、火を点けた。

 冬の乾燥した空気の中で、手紙はよく燃えた。確かな熱を帯びたそれは畏れを感じるべきものであるはずなのに、どこか不思議な魅力を持っていて、寒さを忘れて僕はじっと、それを見つめる。

 彼女が僕に関心がなかったとしても、人を殺したとしても、どれだけ残酷な人間であったとしても。僕は僕が抱いていた感情を否定しない。あれが、あれこそが、かけがえのない僕の初恋だったのだ。

 しかし、時は流れる。初恋は終わる。

 僕には、恋人が出来た。彼女との出会いほど劇的なものではないかもしれないけれど、それでも時間を共有することを幸せだと思うことが出来るような恋人が。

 初恋をいつまでも抱えてはゆけないのだ。だから、せめてもの弔いを。

 焼け落ちた手紙であったものをかき集め、手で庭に穴を掘る。冬の土は冷たく、土は爪の中に入り不快な感覚がある。けれどそれでも、僕は一心に掘り続ける。

 庭に出来た小さな穴に、僕は灰を入れ、そして土を被せて埋める。全てが、終わった。

 空を見上げると、月が僕のことを見下ろしていた。相変わらず、何を考えているのかは分からないけれど、あの日から変わらず、美しいことは確かだった。

 それが、僕の初恋が死んだ日だった。僕が、初恋を殺した日だった。

執筆者

文芸学科1年 八咫 黄泉子(ペンネーム)

この作品は2023年度文芸研究I・小神野ゼミの実習「自由創作・テーマ:死体」で制作されました。