創作物

小説

泡沫

 海は好きだ。海に入ると、冷たい水と身体の体温が溶け合って、まるで自分までもが海の一部になったかのように感じられる。こうやっていつまでも、海の中にいられればいいのに。
「起きて」
 しかし現実はそうではない。眩しい太陽がレインの濡れた身体を焼こうと、一生懸命照らしている。熱い砂浜と、重たい身体と、上手くできない呼吸。夢と現実はいつだって大きく異なる。咳き込むと同時に、レインは目を開けた。
「どうして泳げないのに海に飛び込むの?」
 そして、自分を海から救い、ここまで連れてきた友人の方に顔を向ける。
「マリンが助けてくれるから……」
「理由になってない」
 こんなやり取りももう、何回目だろう。レインがこうして海で溺れるたびに、マリンは必ず助け出し、そして怒る。
「あと、飛び込んでないよ。泳ぎの練習」
 懲りもせずに言ったレインは仰向けになったまま空中で泳ぐ動作をしてみせた。あまり上手くはない。この島で泳ぎの練習をしているのはレインくらいだ。美しいコバルトブルーの海に囲まれたこの小さな島では、外界からの侵入を受けることもなく、少ない島民が皆で協力し合って穏やかに暮らしている。海の恵みで生活のほとんどが成り立っているこの島で、泳げないのはレインだけだった。
「早く、泳げるようになりたい。そしたら、マリンと一緒に泳げるのに」
 レインが身体を起こして、髪の毛を絞った。水が砂浜に吸い込まれていく。
「何回も言ってるけど、いくら泳ぎが上手くても私とは次元が違うの」
 言いながら、マリンの尾ひれが二回、三回と動いた。その動きをレインの目線が追う。
「でも、いつかマリンみたく……」
「無理」
 だって種族が違うんだから、そう言って困ったように笑うマリンは、レインの唯一の友人で、人魚だった。今から六年前に、あの時もレインは溺れていた。それを救ったのがマリン。あの時から、レインが海に来なかった日はない。来なかった日は、というより溺れなかった日は、の方が正しいが。
「私も、人魚になれたらいいのに」
 太陽の光を浴びて美しく輝く鱗を、レインは羨ましそうに眺めた。鱗に限った話ではないが、マリンは髪も、瞳も、全てが美しくて魅力的だ。
「そう?」
「そうだよ、なれるものならなりたい」
 レインが先程よりも力強く言うと、マリンは一瞬だけ体を強ばらせた。
「人魚になる方法、ないの?」
 さらに近づいて聞くと、マリンは目を逸らす。
「……ないよ」
「本当に?」
「本当にない。ほら、今日も練習するよ」
 マリンが言うと、レインがそれ以上言及することはなかった。こういう時のマリンは、問い詰めても絶対に何も言わない。
「じゃあ、今日もよろしくお願いします」
「泳げるようになるといいね」
 六年前から毎日海に来て、それでも一切泳げるようにならないレインだが、マリンは毎日、泳ぎ方を教えてはいる。しかし生まれた時から泳ぐことのできたマリンは、レインが何故泳げないのかさえわからない。そのため、マリンの教え方では、レインは一向に泳げるようになれないのだ。
「別に、私に教えてもらわなくたっていいのに」
 マリンはもう何度も言っているのだが、レインはいつもそれを嫌がった。レインの家は漁師で、兄が二人、姉が一人、妹が一人。その誰もが泳ぐ能力に長けているものの、誰もレインに泳ぎ方を教えてはくれない。そして家族以外でレインが泳げないことを知っている人はいない。レインはいつも一人だった。そんな事情を知っているマリンは、教えてもらわなくたって、と言いながらも結局は最後まで面倒を見ている。
 今日も、暗くなる前に練習は終わった。練習が終わると、レインは帰る時間だ。本当はずっとここにいたい、と何度も言うのだが、マリンはそれを良しとしなかった。
「じゃあまた明日」
 帰りたくない、という表情を全く隠せていないレインが手を振ると、マリンも手を振り返す。
「溺れないでね明日は」
「明日は多分いける」
 レインが見えなくなってから、マリンは海に潜る。ちょうど、夕日が沈むのと同じ時間に。

 

 次の日、やはり海に沈んでいくレインを、マリンが救い出す。意識を戻してから、レインは近くに投げ出されていた鞄を持ってきた。
「今日は学校で、人魚の勉強をしたんだよ」
 鞄の中から人魚の本を取り出す。古びたその本は、あちこちページが抜けてしまっていた。
「面白かった?」
「うん」
 レインは適当なページを開いて、読み上げる。
「これなんて、私知らなかった。人魚の涙を飲めば、あらゆる傷も怪我も治り、どんなに弱った人間でもたちまち元気になるでしょう……」
「嘘」
 それをマリンの声が遮った。今度はまた別のページを開く。
「人魚の血は青色!」
「そんなわけない」
 なんならここで血でも流してみせましょうか? というマリンを止めて、レインは次のページへ。
「人魚を怒らすと嵐になる」
「それも違う」
 また次。
「海の底には人魚の王国がある!」
「ない」
「人魚に恋をすると泡になる」
「ならない」
「人魚は不老不死……」
「違う」
 そんなやり取りを繰り返すうちに、とうとうマリンが痺れを切らして、レインの持っていた本を取り上げた。
「!」
 本には、美しい人魚の絵が書かれているが、本物のマリンには到底敵わない。
「誰が書いたかもわからない本なんかなくても、目の前の私を見ればわかるでしょう?」
 マリンは、そのキラキラと輝いた瞳で真っ直ぐにレインを見つめてくる。
「そう、だね……」
 その気迫に押されてレインが頷くと、マリンは本を返した。
「私の涙は不思議な力も持っていないし、私を怒らせても、嵐なんかにはならない」
 レインは返された本を鞄に入れると、マリンの手を取る。
「わかった。マリンの言うことなら信じるよ」
 マリンは曖昧に微笑む。その日の練習は二人とも、どこか上の空だった。

 海は嫌いだ。冷たくて暗くて寂しくて、広く静かな世界で独りぼっちになってしまったかのよう。マリンはレインと別れてから、一人で先程の本の内容を思い出していた。いくつかは、本当だった。遠い昔に捕まった人魚の記録か何かが、残っていたのだろう。真実と、人間の作った設定が混在したあの本は、少し面白かった。
「不老不死……」
 正確には、少し違う。不老ではあるため、老いが要因で死なないというだけ。不死ではない。それに加え、死ぬようなことが海の中では滅多に起こらないせいで、結果、ほとんどの人魚が若いまま長く生きることになる。だが、当然心臓を貫かれれば死ぬだろうし、溺れる以外の呼吸ができない状況に追い込まれれば息を引き取る。マリンはそれをこう解釈していた。人間にさえ見つからなければ人魚はある意味不老不死だと。実際、人間から上手く逃げながら生きているマリンは、こうして何百年もの間海で生き続けている。仲の良かった人間が、いなかったわけではない。しかし、人魚は高く売れると唆されて、突然襲いかかってくる人間も、一人や二人ではなかった。そうでなくとも、いつかは寿命で必ずお別れだ。そして、マリンがもう人間と関わることはやめようと決意した直後に出会ったのがレインだった。長く生きてきたマリンの人生で、今が一番賑やかで、楽しい時間だ。いつかは終わるとわかっていても。

 

 それからも、レインは毎日海へやってきた。もうあの本を読むのはやめたらしい。わからないことは本ではなくマリンに聞けばいい、というわけだ。自分で本に嫉妬しておきながら、人魚のこれを色々と聞いてくるレインに、マリンはいつも誤魔化して答えていた。そんなある日、太陽を眺めながら海で悠々と泳いでいるマリンは違和感を覚えた。レインの声が聞こえない。いつもならもうどこかで溺れている頃合いだ。この小さな島の周辺の海の中くらいなら、マリンはどこに人がいてもわかる。それでも今日は、海のどこからもレインの声が聞こえない。声が聞こえないということは、溺れてはいないということではあるが、それでも少し不安になった。時折顔を出しながら島の周辺を観察すると、砂浜から少し離れた岩場の影に、レインが一人でうずくまっている。マリンはゆっくりとそこに近づいた。
「今日は、泳がないの?」
 控えめに聞くと、レインは衣服の裾をたくし上げる。
「今日は無理なの」
 レインの日に焼けた肌に、薄暗い青色の痣。マリンは顔を顰めた。
「これは、どうしたの?」
 聞かなくても、わかってしまっている自分が嫌だった。人間の暴力性を、マリンはレインよりもはるかによくわかっている。
「学校の子に、殴られたの」
 思った通りの答えに、マリンは唇を噛んだ。
「嫌って言わないの?」
 レインは首を横に振る。
「だってあの子、村長さんの子だもん」
 その答えがよくわからないマリンが、レインに顔を寄せた。
「それって、どういうこと?」
「村長さんの子とは仲良くしなさいって言われてる」
「でも、嫌なら嫌って言えばいいのに」
 海の下に長とされる存在はいない。上下の関係もなく、果てしなく広い世界で皆がそれぞれ思い思いに過ごしている。そのためマリンは、レインの言いたいことを理解するのが非常に難しい。
「嫌って言ったら、もっと酷い目に遭うかもしれない」
「嫌って言わなくても、酷い目に遭ってるじゃない」
「だからって、言えないよ」
「でも、」
「どうせマリンにはわからないよ!!」
「そんなこと、」
「もうあっち行って、話したくない」
 マリンはなんて声をかけるか悩み、一度手を伸ばしたが、全くこちらを見る様子のないレインを諦め、その場を離れた。途中何度振り返っても、レインが顔を上げることはなかった。

 

 こんなに静かな海は久しぶりだった。レインと出会う前に、戻ったかのようだった。長い間一人で生きることに慣れ、寂しいという感情など忘れていたはずが、思ったよりも彼女と会えないという空白は大きかった。それからしばらくはずっと静かだ。レインは泳ぐ練習をやめたのだろう。でも、これでいいんだ。マリンは思う。人間との別れは必ずくる、その別れが少し早かっただけの話。特別に辛いということはない。レインだって、自分とは違う種族のマリンとずっといるより、あの小さな島の住人たちと上手くやっていく方が大事に決まってる。
「今日もいないのね」
 これでいいと自分に言い聞かせながらも、マリンは毎日島の周辺を泳ぎ続けた。いつレインが来てもいいように。しかし、何日経ってもレインは海に戻ってこない。島の中で幸せにやっているのならそれでいいが、今まで聞いてきたレインの事情を思うと、そう楽観的には考えられなかった。島の内部の水路にまで行こうか、などと考え始めた時、レインの声が数週間ぶりに海に響いた。
「!」
普段はマリンが滅多に行かない、人の多い岩場から、レインの声がする。泳げない、ということを隠していたレインは、人の少ない場所でしか海に入らなかった。だからこそ、マリンはすぐに助けに行くことが出来た。しかし、人の多い場所となると、マリンは躊躇った。レイン以外の人間には見られたくないというのもあるが、周りに人がいるなら、きっと誰かが助けてくれるだろうという思いもある。レインもきっと、人間に助けてもらう方がいい。しかし、レインの声が聞こえてから三十秒経っても、誰か別の誰かが助ける声は聞こえない。
「まさか」
 マリンは、学校の子から嫌なことをされている、とレインが言っていたことを突然思い出した。人間が愚かな行いをすることは、長年生きてきて嫌というほど知っていたが、こんなことをするとは思いたくなかった。それでも、助けなくてはとマリンは勢いよく泳ぎ出す。そこから数秒で、すぐにレインの元にたどり着いた。目を瞑って暴れているレインが、深く深く沈んでいく。マリンはレインの身体を掴み、すぐに海面へと向かった。いくつもの人影が見える。それを恐れる余裕など、マリンにはなかった。
「!」
 マリンがレインを抱えて水から顔を出す。嫌な笑い声に溢れていた少年たちの、笑い声が止まった。
「人魚だ!」
 陸にいる数人の少年が叫ぶ。この中にいる誰かが、レインをこの海に突き落とした犯人だ。いや、誰も助けなかった時点で、ここにいる全員は同罪。マリンは少年たちの方を睨んだが、動かないレインの方が大事だった。そして少年たちも、レインがどうということよりも、突然現れた人魚の方に気を取られている。数人が大人を呼びに行くともう既に走っていってしまった。マリンはレインを抱えたままできる限り早く泳ぐ。この場から逃げるという選択が今できる最良の判断だった。いつもの、ほとんど人がいない砂浜に辿り着くと、マリンはレインの胸元を強く押した。しかしいくら押しても、いつものように口から水が吐き出されない。長い人生で何度も溺れた人間を救ってきたが、ここまで反応がないのは初めてだ。どれだけ強く胸を押しても、レインの呼吸は再開しない。このままでは、死んでしまう。もっと早く助けに行けばよかった、そもそもあんな口論しなければ。今しても意味のない後悔だけが頭に浮かんでは消えていく。そんな時、マリンの目から涙が零れた。
「あ」
 人魚の涙は、全てを治す万能な薬なんかではない。いや、人間からしたら確かに万能薬なのかもしれないが、マリンはそうは思っていなかった。人魚の涙を飲めば、大抵の傷や病は治る。だがその代償に、二度と地上では生活することができなくなる。つまり、マリンと全く同じ、老いという概念から解放された、人魚という種族に変わる。それは、人間として生きるよりも長い時間を、暗く寂しい海で生きていくという意味。そんな人生を、マリンは誰にも送ってほしくなかった。今までたくさんの人間と関わってきたが、誰にも自分と道ずれになってほしいだなんて、言わなかった。言えるわけがなかった。
「ゲホッ、」
 レインの咳き込む声で、マリンは涙を乱暴に拭う。これを、彼女の口に入れてはならない。
「レイン、大丈夫?」
 マリンの問いかけに、レインは水を吐き出しながらなんとか答えようとしたが、いつもと違ってなかなか元に戻らない。
「苦しい」
 聞き取れたその言葉を、マリンはどう受け止めていいのかわからなかった。レインを今すぐ楽にすることが、マリンにはできる。だが、マリンはそれを望まない。
「いたぞ!!」
 マリンが頭で様々なことを考えていると、大きな声が聞こえてきた。マリンもレインも驚いて、声の方を見る。そこには先程いた少年たちと、数人の大人。皆険しい表情でこちらへ向かってきていた。
「マリン、逃げなきゃ」
 未だに咳き込みながら、レインが言う。マリンもそれはもちろんわかっていた。だが、逃げるにしても、今の状態のレインを連れていくには無理がある。そもそも、レインは人間たちに任せていいのではないか。いや、先程海に落とした人間たちのことなど、もう信頼はしたくない。迫ってくる人影、究極の選択。マリンは冷や汗が止まらなかった。そんなマリンの迷いを察したのか、彼女の本能か、レインがマリンの首に手を回す。
「私も、逃げたい」
 マリンの揺らいでいた瞳がピタリと止まる。
「私を……広い世界に連れてって」
「本当に、いいの?」
 マリンの頬に一筋の涙が流れた。
「いいよ」
 レインがマリンの頬に口付ける。途端に、レインはしっかりと呼吸ができるようになった。レインが起き上がると、マリンはすぐ傍まで迫っている人間たちを睨む。そして、レインの身体を抱きしめた。
「レイン、私いくつもあなたに嘘をついた。あなたに怖がられたくなくて」
「?」
 首を傾げたレインの肩に、雨粒がひとつ落ちる。始めはポツポツと疎らだった雨が、やがて一瞬で土砂降りへと変わった。雨だけでなく、雷も鳴り響くと、海も突然大きく荒れ始める。驚くレインに、マリンが言った。
「人魚は、怒ると嵐を起こせる」
 いつもは宝石のように青く煌めく空も海も、今や真っ黒に塗りつぶされている。雨の音で、近づいてくる島民たちの声はかき消された。呆然としているレインの手を、マリンが引く。
「この大きな海で、長い時間を生きていく覚悟はある?」
 レインは力強くマリンの手を握り返す。
「ずっと海でマリンといられるのなら、本望だよ」
 嵐に紛れ、二人は海へと飛び込んだ。レインはいつもの息苦しさを感じる。嵐のせいで海が荒れて、余計に溺れてしまうような気がした。
「大丈夫だよ」
 海の中で振り返ったマリンが言うのと、ほとんど同時に、レインの息苦しさが急速になくなっていく。
「!」
 そしてレインの足が、ゆっくりと海に溶けていった。その代わり、海によく馴染む鱗へと変化していく。荒れ狂っていた海が、突然とても居心地のよいものに感じられた。確かに荒れてはいるが、レインとマリンの周りだけは穏やかなようにも思える。レインが海の中で、自分の尾ひれを見てからさっそく使ってみようと前へ進む。
「嘘でしょう?」
 しかし、全くもって進まないどころか、海の中での動きは人間だった時とそう大きく変わっていない。マリンは呆れてレインの腕を掴んだ。
「今は私が引っ張ってあげるけど、人魚になった以上は泳げるようになってよね」
「頑張ります……」
 人魚になれたらいいのに、そしたら泳げるのに、と散々夢を見ていたレインは、人魚になれても尚泳ぐのが下手な自分に絶望しながらマリンの手に引かれて海の中を進む。地上の嵐が落ち着く頃、二人は遠く離れた穏やかな海で泳ぎの練習を再開していた。

 

「遠い国にね、物語があるの。恋をした人魚が、失恋して最後は泡になって死んでしまうお話」
 遠く離れたところに着いてから、マリンが言った。
「泡になるの? 可哀想」
 レインが言うと、彼女の頬をマリンが両手で包んだ。
「でも私たちの場合、泡になったのは人魚ではなかったね」
 二人の人魚は、泡になどならず、今もこうして生きている。泡になったのは彼女たちではない。泡になって海に沈んでしまったのは、小さな島ひとつだけ。

執筆者

文芸学科/菅梨歩

(文芸研究II・ソコロワ山下聖美ゼミ・2021)