創作物

小説

トントン

音には匂いがある、と思う。

そして匂いは記憶を引き出してくれる。

記憶はいつでも私をその場所まで連れだしてくれる。

誰もが外出や行動を制限されている今、頭の中だけでも自由になりたいと私は様々な音を思い描いてみた。

 

まな板の上で包丁が立てるトントントンと規則的な音を聞くとお味噌汁と炊き立てのご飯が目の前に現れる。

一人暮らしで手軽な朝食ばかりの私は、この匂いを嗅ぐとホッとして思わずお腹を鳴らしてしまう。

出汁をとりながら具材を切り、沸騰する前に火を止めゆっくりと味噌を溶いていく母の手元をのぞき込むのが子供の頃は好きだった。

 

幸せな記憶のはずなのにふいに悲しくなる。

 

別の音は何かないだろうか。

トントントン…

先ほどと同じ音が聞こえてくる、いや、少し違う。

母が1階から階段で上がってくる音だ。

トントントン…夜だからか少しこちらを気遣うような控えめな音が近づいてくる。

なぜだかこの音が好きな私は布団に頭をすっぽりと潜りこませ耳をそばだてながら小さく息を吐いてみる。

扉の前で音が止まり、ゆっくりとドアが横に開くとかすかな明かりが漏れてくる。
思わず寝たふりをした私の額にゆっくりと手が置かれた。

家事をしていたためかひんやりと冷たい手は、私の熱くなった体温には心地よかった。

「熱は下がったみたいね」

安心したようにそうつぶやくとそっと手がはなされる。

私は名残惜しくなり思わず目を開けてしまった。

 

また、昔を思い出してしまった。

 

近頃は母に会っても以前のように片時も傍を離れずに一緒にいるようなこともない。
作ってくれた食事も当たり前のように食べては何も言わず席を立つ。

心配してくれる言葉も責められているようで全て小言のように感じ、早く話を終えたくて慌ただしく会話を切ることも増えてきた。

 

どうしてそうなってしまったんだろう。

ふいに、母の懐かしい匂いがした。

 

母に、会いたい。

私は携帯電話を手にとった。

一番好きな―母の音を聞くために。

(執筆者情報)
文芸学科/作者名非公開
文芸研究III(谷村順一ゼミIII・2021)「800文字で書くオノマトペ」